松下村塾の指導者 (23)
爾来隣国支那は識者にさえ世界の一大強国としてみとめられてきた国であった。林子平もすでに支那の来寇に警戒をおこたってはならぬと論じたほどである。殊に当時の学者一般が先進国として尊敬して来たその大国が、ひとたまりもなく英国派遣軍の砲門にくだったことは、いまさら心ある人人のむねに欧米諸国の実力を認識させ、畏怖させるに十分であったろう。国防は焦眉の急務でなければならぬ。佐久間象山が天保十三年十一月藩主にして老中であった真田幸貫に海防八策を上ったのも、これがためであった。
かくて国内整備の必要は雄藩諸侯の藩政改革となり、水野老中の内政改革となった。けれどもこの内政改新の途上に外船打払令の危険を感じたのであろう、あるいはそう見たくはないが阿片戦争の顛末におそれたのであろう、天保十三年七月には、「万国へ対せらるる御処置とも思召されず候」とて、打払緩和薪水給与令を布達した。寛永以来の鎖国の祖法はようやく根底から動揺し、対外策の根本的転換がすでに予見せられるようであった。歴代幕閣によって、祖法固守の伝統の上にのみ幕府の存在が可能と信じられたとき、三百年の強権政治はこの一角から徐徐にくずれつつあることを、誰もまだ気づかなかったのである。
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